春になると、地方の駅のホームには大きな荷物を抱えた若者たちが並びました。中学校や高校を出たばかりの少年少女が、ふるさとを離れて都会へ働きに出る。それが集団就職です。彼らを乗せた特別列車は『集団就職列車』と呼ばれ、見送る家族の手と、不安と期待でいっぱいの若い顔とが、ホームいっぱいに揺れていました。
働き手として大切にされた若者たちは『金の卵』と呼ばれ、上野駅に降り立って都会の暮らしを始めました。あれから時代は移り、今は引っ越しも宅配で、面接はパソコンの画面ごしで、働く場所も家のなかということが珍しくありません。働き方の昔と今を、ご家族でゆっくりくらべてみましょう。
上京のしかた
昭和三十年代から四十年代にかけて、春先になると東北や九州の駅から『集団就職列車』が仕立てられました。同じ村や同じ学校の仲間と一緒に、夜行の列車に揺られ、固い座席で一晩を明かして都会を目指したのです。窓の外を流れる景色が、田んぼから町並みへと変わっていくのを、眠い目をこすりながら見つめた方も多いでしょう。
今は新幹線や飛行機でめいめいが移動し、荷物は宅配便で先に送ってしまいます。
就職の入口と「金の卵」
当時は、学校の先生や職業安定所が間に立って、卒業する生徒をまとめて都会の勤め先へ送り出しました。町工場や商店、町の食堂などが、まだ幼さの残る若い働き手を心待ちにしていたのです。『金の卵』という呼び名には、これからの日本を支えてくれる大切な存在だ、という思いが込められていました。
今は、インターネットの求人サイトを見たり、画面ごしのオンライン面接を受けたりして、自分で職を探します。
到着の風景
上野駅は、北からの列車が着く玄関口でした。改札を出ると、勤め先の名前を書いた紙やのぼりを持った人が待っていて、その目印を探して若者たちが集まったのです。はじめて見る都会の人波に圧倒されながら、はぐれないように仲間と肩を寄せ合った。そんな到着の朝の記憶は、今も胸に残っているものです。
今は、スマートフォンの地図を見ながら、自分ひとりで目的地へ向かえます。
住まい
寮や住み込みでは、同じ釜の飯を食べる仲間ができました。仕事を終えてから銭湯に通い、休みの日には先輩に連れられて街を歩く。給金の一部をふるさとへ仕送りし、残りで好きなものを少し買う。狭くても、若い者どうしの笑い声が絶えない毎日だったという話を、よく耳にします。
今は、自分でアパートを借りたり、家にいながら仕事をしたりと、住まいの形もさまざまです。
家族との連絡
ふるさとの親に近況を伝えるのは、便箋に向かう夜の手紙でした。急ぎの知らせは電報で、短い文に思いを込めたものです。ポストに手紙を入れてから返事を待つあいだの、あの待ち遠しい気持ち。封を切って親の字を読むときのうれしさは、今のすぐにつながる連絡では味わえない特別なものだったのかもしれません。
今は、スマートフォンで毎日でも、顔を見ながら話すことができます。
帰省
一年に二度の帰省は、指折り数えて待つ大きな楽しみでした。土産を抱えて夜行列車に乗り、明け方にふるさとの駅へ着く。家族や友だちの顔を見て、ほんのわずかな日数を惜しむように過ごし、また都会へ戻っていったのです。短い帰省だからこそ、再会の喜びはひとしおでした。
今は、連休や有給休暇を使って、以前よりずっと気軽に行き来できます。
勤め方
若いころに入った勤め先で経験を積み、やがて一人前になって後輩を育てる。そんな働き方が一般的でした。今では、自分に合う仕事を求めて職場を変える方もいれば、本業のかたわら別の仕事を持つ方もいます。同じ『働く』でも、その道すじはずいぶん多彩になりました。
一つの会社に長く勤め上げるのが当たり前と考えられていた昔から、転職や副業、リモートワークなど、働き方の選び方がぐんと広がった今へ。
働く場所
毎朝、同じ時間に同じ工場や店へ通い、隣で働く仲間と声をかけ合いながら一日を過ごす。それが働くということでした。
今は、家にいながら画面ごしに打ち合わせをして、別の町、ときには別の国の人と力を合わせることもできます。働く場所のあり方そのものが、大きく変わりました。
集団就職で都会に出た方、あるいはその時代を間近で見てきた方にとって、あの列車の汽笛や上野駅の人波は、忘れがたい一場面ではないでしょうか。手紙を待った日々や、住み込みで分け合ったご飯のことなど、思い出はいくらでも出てくるものです。
働き方が大きく変わった今だからこそ、『あのころはこうだった』という昔話には、ご家族で耳を傾ける値打ちがあります。お茶でも飲みながら、ふるさとを出た日のこと、はじめての給料のこと、どうぞゆっくり語り合ってみてください。