台所の蛇口をひねれば、当たり前のように水が流れ出てきます。けれど少し前までは、その一杯の水を手に入れるのにも、井戸へ足を運んでつるべを落とし、綱をたぐって水をくみ上げる手間がありました。ぎいぎいと鳴る滑車の音や、桶いっぱいの水の重みを、今でも手のひらが覚えているという方も多いはずです。
井戸端は水をくむだけの場所ではありませんでした。近所の人と顔を合わせ、世間話に花が咲く、暮らしの中心のような一角でもあったのです。この記事では、井戸とつるべの時代から、蛇口をひねる今へと移り変わった水まわりの暮らしを、なつかしい情景とともにたどってみます。
つるべを落とす井戸と、蛇口をひねる今
井戸のふちに立ち、つるべをするすると落とすと、下のほうでぽちゃんと水面をたたく音がしました。綱を両手でたぐり寄せると、桶がだんだん重くなってきて、水面まで上がってくる。滑車のついた井戸なら、ぎいぎいと鳴る音とともに水があがってきました。手押しポンプの井戸では、呼び水を一杯注いでから、ハンドルをぎっこんぎっこんと動かして水を誘い出したものです。
今は蛇口をひねればすぐに水が出てきます。今の子どもたちには、蛇口の向こうにそんな手間があったことは、なかなか想像がつかないかもしれません。
毎日の水くみと、台所まで通った水道
朝いちばんに井戸へ行き、その日に使う水をくんで、天秤棒でかついだり、両手に桶を提げたりして家まで運びました。台所の大きな水がめに水をためておき、炊事や洗い物にはそこから柄杓ですくって使ったものです。お風呂を沸かす日には、何往復もして風呂桶を満たさなければならず、これがなかなかの重労働でした。
今は台所の流し、洗面所、お風呂と、家じゅうに水道が引かれ、蛇口をひねるだけで湯まで出てきます。水を運ぶという毎日の仕事が、すっかり暮らしから消えたのです。
井戸端という集まりの場所
共同の井戸には、朝夕になると近所の人が水くみや洗い物にやってきて、自然と顔を合わせました。米をとぎながら、野菜を洗いながら、その日の天気や畑のこと、子どもの話などをあれこれ交わす。『井戸端会議』という言葉は、まさにこの光景から生まれたものです。誰かの家の様子を気にかけ合い、困ったときには声をかけ合う、ゆるやかなつながりがそこにありました。
今は水道が各家にあるので井戸端に集まることはなくなりましたが、そのぶん立ち話は玄関先やスーパーの帰り道など、別の場所で続いているのかもしれません。
夏の井戸水とスイカ、そして冷蔵庫
夏になると、くみ上げたばかりの井戸水は驚くほどひんやりしていました。網や桶にスイカやトマト、キュウリを入れて井戸のそばに置いたり、くんだ水に浮かべたりして冷やしたものです。畑仕事の合間に、その冷えたトマトにかぶりつく味は格別でした。井戸のそばで割った真っ赤なスイカを、家族みんなで縁側に並んで食べた夏を、覚えている方も多いことでしょう。
今は冷蔵庫があるので、いつでも冷たい飲み物や果物が手に入りますが、あの井戸で冷やした自然な冷たさには、また違った風情がありました。
夏冷たく冬あたたかい井戸水と、気にせず使える今
地面の下からくみ上げる井戸水は、一年を通しておおよそ同じくらいの温度でした。そのため、真夏には外気よりずっと冷たく感じられ、逆に真冬には手が切れそうな寒さの中でも、井戸水はほんのりあたたかく感じられたのです。冬の朝、かじかんだ手を井戸水に浸すとほっとしたという思い出をお持ちの方もいるでしょう。
今は給湯器のおかげで、寒い日でもすぐにお湯が使えます。季節ごとの水の温度を体で感じる場面は減りましたが、そのぶん水仕事はずいぶん楽になりました。
水を大切に使った暮らしと、使える分だけ使える今
井戸から一杯ずつくみ上げる水は、決して無駄にできないものでした。米のとぎ汁は畑にまき、野菜を洗った水は打ち水に使う。軒先には天水桶を置いて雨水をため、庭木の水やりや掃除に役立てたものです。水を一滴も無駄にしないという心づかいが、暮らしの中に自然としみ込んでいました。
今は蛇口をひねれば必要なだけ水が出てきますから、そうした工夫は少なくなりました。便利になった一方で、水を大切に思う気持ちは、今もどこかで受け継いでいきたいものですね。
蛇口をひねれば水が出る今の暮らしは、たしかに便利で快適です。けれど井戸端でつるべを落とし、桶で水を運び、近所の人と言葉を交わした日々には、今とはまた違ったぬくもりがありました。
井戸のあった家のこと、水くみを手伝った子どものころのこと、井戸で冷やしたスイカの味。ご家族やお仲間と、そんな水まわりの昔話をあれこれ語り合ってみてはいかがでしょうか。同じ井戸でも、地方や家によって思い出はさまざま。そのひとつひとつが、楽しいおしゃべりのきっかけになるはずです。